
今年の2月に、奈良に住む知人宅で仕込みをさせていただき、
その後、家で熟成させていたお味噌が出来上がりました。
約8ヶ月ぶりに瓶のふたを開けてみると、ふわりとお味噌のいい香り…。
仕込みの時には、本当に大豆の色そのままだったのが、
こんなに深いお味噌色に!
昨日、今日とさっそくこのお味噌でみそ汁を作ってみました。
コクがあってまろやかで優しいお味。
みそ汁を飲むと、本当に身体が芯からほぐされるような感じがします。
これから寒くなる季節に手放せなくなりそう…。
わが家だけでは到底食べきれないくらいたくさん出来たので
年末に実家に手みやげとして持ち帰ろうと思います♪
(*2月の仕込みについての日記はこちらです。)
「日々のこと」カテゴリーアーカイブ
銀杏の匂い
今日、自転車で通りのイチョウ並木を走っていると、ほんのりと銀杏の匂いが…。
イチョウの葉が黄色く色づくまでにはまだ1ヶ月ほどありますが、
もう銀杏が落ちてるのかな…。
銀杏の匂いには少し癖がありますが、わたしはこの匂いが嫌いではなく、
むしろ季節感を感じさせてくれるので好きだったりします。
たいてい自転車で移動しているので
京都に来てからはまだ拾ったことはないのですが、
大阪の実家に住んでいる頃には、よく父が拾ってきてくれました。
そしてそれを火で炙って皮をむいて、家族みんなで食べます♪
炙っていると、あたり一面香ばしい匂いが立ち込め、
黄金色をしたつややかな実をぽんと口の中に入れると、
硬すぎず、しかし決して柔らかすぎない、あのなんとも言えない歯ごたえと、
銀杏独特の味が口いっぱいに広がる…!
このシンプルな銀杏の食べ方が、大好きでした。
また、時にはそれが茶碗蒸しの中に入ることもありました。
茶碗蒸しの中から銀杏が顔を出したときには、いつも嬉しくて…。
たとえみんなの茶碗蒸しに入っているのだとわかっていても、
どこか「アタリ」のような感じがしていました!( ´¬`)
銀杏の匂いで思い出す様々のこと…。
イチョウの葉が色づいて、通り一面黄色く染まるのが、
今からとっても楽しみです♪
que sera sera
どれが一番好きか決められないくらい、どの曲もとっても素敵なのだけれど、
その中で大好きな曲の一つ、Que sera sera(ケ・セラ・セラ=なるようになる)。
この Que sera sera、もともとはアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『知りすぎていた男』(1956年)でドリス・デイが歌った曲。映画ではとても勇壮な雰囲気で歌われている。
ほかに、雪村いづみさんによる日本語バージョンもある。
ジャズバンドな雰囲気が素敵。
いい曲って、いろいろな人にいろいろにアレンジされて歌われて、それぞれに違った雰囲気なのだれど、そのそれぞれごとに醸し出される色合いというのがあって、いいなーと思う。
時に同じ曲なのに、あれ、違う曲?って思うくらい、ずいぶん雰囲気や印象の違う感じにアレンジされた曲と出会うときもあって、そういうときはどきっとする。
そこに映し出す世界をがらりと変えるという意味では、何も「0」から生み出すのではなくても、「アレンジする」ということは、それだけで十分 「創造的」な作業なんだな、と思う。
あの世からのことづて

今日は、五山の送り火の日。
毎年、大文字山の「大」の字の送り火を眺めながらお盆の最終日を迎えます。
「大」の字に火が入れられて赤く燃えているのは15分くらいですが、
この真っ赤な火と、そこから立ち上る煙を見つめていると、
この立ち上る煙とともに、精霊たちが帰っていくように思われて、
心静かな気持ちになります。
*
特にお盆だからと読み始めたわけではないのですが、
最近毎日少しずつ読んでいる本があります。
松谷みよ子さんの『あの世からのことづて』。
死にゆく者や死者と、現世で生きる者との交流のお話が全部で62篇、
収められています。
お話は創作ものではなく、実際に松谷さんが日本各地で聞き取った民話。
『いないいないばあ』などの絵本作家として有名な松谷みよ子さんが
このような民話の調査・研究もされているとは知らず、とても興味深く、
面白く読んでいます。
*
あの世に住む者と、現世に住むわたしたち。
住むところは違っても、このように何らかの形で接触することがあるとしたら…。
とても不思議で、理性的に考えて理解できる類のものではないですが、
きっとどれだけ科学技術が発達したとしても、
そういう科学的なものの見方や考え方からは漏れ落ちていくような、
「わからなさ」というのはどこかで、いろいろな形で残っていくような気がします。
きっとそういう部分こそが、「人間」の面白いところであり、魅力であると思うから…。
松谷さんのこの本を読んでいると、
日本のあちらこちらにお盆の風習が残っているのも、
こういったことが「実際に」あったかなかったかは別としても、
それぞれの人に、それぞれの形で、そういった経験が「本当に」あるからこそ、
なのかもしれない、と思います。
空の花
昨晩は琵琶湖に花火を見に行ってきた。
これまで、大阪、滋賀、京都でいろいろな花火を見てきたけれど、
わたしの経験する限りでは琵琶湖の花火大会は、
その規模と迫力という点では群を抜いてもの凄い。
*
琵琶湖に打ち上げられる花火を初めて見たのは、4,5年前に浜大津から、だった。
自分の認識の容量をはるかに超える勢いで次から次へと打ち上げられる花火に、
身体が震えるくらい、どきどきした。
なぜだかわからないけれど、嬉しくって、凄すぎて、そして少しの恐怖感もあって。
琵琶湖の上に、扇形状にひろがる色とりどりの大輪の花。
少し遅れて聞こえるどーんどーんという大きくて分厚い音…。
そして、なんかよくわからないけれど、とんでもないことが起こっている、
というような感覚。
「感動」というのは、自分自身にとっての、ある一定の容量を超えたもの
と出会ったときに生まれるんだ、とそのとき思った。
今回は二度目ということもあってか、
そのときに比べるとやや落ち着いて(笑)見ていたような気がするけれど、
それでもやっぱり凄かった。
花火はいいなー、すきだなー、と思った。
しゅるしゅるしゅるとあがっていって、ぱっとひらいて、
そして消える。
そしてそのあとにどーんという大きな音が聞こえる。
ほんの一瞬のことだけれど、その一瞬の出来事が
人々を楽しませたり、その心を震わせたりしている、ということが
わたしにはとても美しいことのように思える。
*
日が傾いて涼しくなった頃、花火でも見に行こうかって言って
ぶらぶらとうちわ片手に外に出て行く、
そんな夏の夜が大好きだ。


