今朝、ひゅーひゅーいう風音のなか家で作業をしていると、
突然シャンシャンシャンシャンと蝉の鳴き声。
こんなに本格的な鳴き声は今年初めてだな、と思いながら聞いていると、
これまでがたがたと窓を激しく鳴らしていた強い風が、ふとやわらぐ。
あれ…と思って窓を開ける。
あれだけ吹き狂うようにして降った雨と、
窓を開けられないくらいの圧力の風をもたらした台風が、
去っていった…。
まるで蝉は、もうそろそろ台風が去っていく…
とわかった途端に一斉に鳴き始めたみたい。
いよいよ夏がやってきた。
「日々のこと」カテゴリーアーカイブ
蓮とオオサンショウウオ
今日は滋賀県は琵琶湖の東側、烏丸半島の蓮の群生地へ行ってきた。
草津駅からバスで20分。
到着すると大きな風車が出迎えてくれる。

ドイツ製。かっこいい!

でもちっとも回っていなかった…。
歩いていくと…! 本当に辺り一面の蓮。
この緑の葉の上を歩いていってみたい気持ちになる。

大きな丸い葉に、空気をそっと包み込むように咲く花。
淡いピンクのグラデーション。
つぼみのもの、咲きかけのもの、散ってしまったもの…。




この葉のおかげで、水の中はずいぶんと涼しくなっているのだろうな。
おたまじゃくしやアメンボやトンボがたくさんいた。

近くに、滋賀県立琵琶湖博物館があって、そこにも行ってみた。
琵琶湖の生い立ちから琵琶湖畔に住む人たちの生活にいたるまで、かなり充実した展示。
それに淡水に住む魚たちを紹介する水族館まで。
水族館では、文字通りとっても大きい(体長約1mくらい?)
オオサンショウウオを生まれて初めて見た。
それに「絶滅危惧種」と赤い字で書かれた水槽にいる魚たちもたくさん見た。
「かつては田んぼ(あるいは湖)にたくさんいたけれど、
環境の変化により(あるいは汚染により)現在はほとんど見られなくなっている…」
というような旨の説明書き。
さらりと書いてあるけれど、環境の変化というのは、
私たちが思っている以上に大きいのかもしれない。
水族館にはメダカもいたけれど、
昔だったら水族館でメダカを見るなんてことは考えられなかっただろう。
日常生活においてではなく、こうやって博物館や水族館の中でしか
生き物たちと出会えなくなってきているのだとしたら…とてもさびしい。

とっても暑かった日。
琵琶湖の水の豊かさと、夏の美しい雲を身体いっぱいに感じた一日。
いただきもの
にほひ
夕方、外に出ようと思って家の扉をあけると、
どこからともなくほのかな蚊取り線香のにおい。
特によい匂いというわけでもなく、
かといってすごくいやなにおいかといえばそうでもない、
独特のにおい。
この匂いで、にわかにあの夏の夜の空気のなかに
ぽっと身体がおかれたような感じになる。
夏の夜といえば決まって思い出すのが、
おばあちゃんち。
竹で編んだラグのひんやりとした感触に浴衣。
スイカにシャーベットに盆踊り。
窓につるされたすだれの風に揺れる音。蚊取り線香。
ゴムのヨーヨーをばしゃばしゃさせる音……。
もう夏だなー
梅棹忠夫展のこと


先週のことになってしまったけれど、大阪の万博記念公園内にある国立民族学博物館で開催されていた「梅棹忠夫展」に行ってきた。梅棹忠夫と言えば、生態学者・民族学者(文化人類学者)という研究者としての顔だけでなく、京大カードの生みの親であるということがまず思い浮かぶ。
読書や調査などから得た情報や知識、そしてそれを通してなされた考察などをいかにして整理し、知的創造活動・知的生産活動へと結びつけるか、という探究の結果として生み出された京大カード。学生の頃大学生協にいくと、普通のノートよりはやや厚みがあってしっかりとした、B6版の京大カードとそれ専用のバインダーが並んでいたものだった。
彼の生み出した京大カードは、上に述べたような情報・知識・考察をノートに整理する場合とは違って、後で自由に並べ替えたり、組み合わせたりしながら発想を膨らませたり、考えを深めたり、またその組み合わせから新たな考えの道筋を導きだしたりすることができる、というところに大きな特徴がある。京大カードについては、その著書『知的生産の技術』に詳しいが、これを読んでいると、梅棹忠夫という人は、いかにして自分自身の頭のなかにごちゃごちゃとあることを一つ一つ取り出して可視化するか、そしてそれを整理して一つの流れをつくっていくか、というその方法・技法というものに、とても意識的であったのだと思う。
また、このような知識・情報・考察の整理ということについてだけではなく、仕事机と事務机を分けるということや、原稿用紙について、ペンについて、そして今ではもう問題ではなくなっているが、原稿執筆の道具としてのタイプライターについても細かく書かれていて、知的生産・知的創造活動が目的であるとするならば、一見その目的自体とは直接に大きく関わらないように思われるこれらのことが、いかに知的生産・知的創造活動を規定するものであるか、ということを考えさせられる。どのように」という技法に関わる部分というのは、実際わたしたちが思っている以上にその「内容」と深く結びついている。
このように書いてきて再びここで思うのは、梅棹忠夫展は、「梅棹忠夫」という人の仕事の「中身」を単に展示し紹介するという類のものではなく、その展示の仕方という点においても、梅棹忠夫のあり方の一面をよく映していたということ。博物館や美術館の展示で一般的によくあるように、前から順に一列に展示していくという方法ではなく、どこからでも、どういう順番にでもみられるように、訪れた人の足の向くまま、思いのまま自由にフロアに自分の足跡を描くことができるような、そんな展示の仕方だった。
梅棹忠夫という人の縦横無尽さゆえの「とらえどころのなさ」。
一つの流れや一つのまとまりとして収まりきらないその身振りを、展示の仕方という点からも浮かび上がらせるような、そんな梅棹忠夫展だった。

調査先での鳥の鳴き声の採譜 面白い♪

うさぎのスケッチ

梅棹忠夫のノート「独創はinspirationである。独創を生かすもころすも、そのinspirationをとらへるか にがすかにある。」などと書かれている。

高校生の頃のノート どう見ても数学のノートのようだったけれど、その中の1ページにはこんな譜とドイツ語の歌詞も書かれていた…♪

