出会ったもの・こと」カテゴリーアーカイブ

夏の再会

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この夏、およそ10年ぶりくらいに、高校時代に仲のよかった友人と再会する機会があった。
高校・大学の頃知り合った友人のほとんどが東京に行ってしまった今、京都に遊びにいくよー、という彼女からの連絡はとても嬉しかった。

 

さすがに10年となると会うのに少しどきどきしたけれど、実際会ってみると、全然変わらないなあというところと、10年の間にいろいろあったんだなあと、いい意味での変化を感じさせるようなものがあって、お互いに年齢を経るごとに少しずつ変化していながらも、10年前と同じように、とりとめのない話を話したり、なるほどーと思わされるような話を聞かせてもらったりするのは、とても楽しく、嬉しかった。

 

南禅寺から奥の院へ行き、そこから哲学の道をてくてくと歩いて銀閣寺まで行った。
普段は通らない道を行ってみると、日常の生活圏なのに(だから?)、あれー、こんなとこあったんだ!っていうような発見があったりもして。
銀閣寺の前では、翌日の五山の送り火の護摩木にそれぞれの願いを書き入れる人や観光に来た人でいっぱいだった。

 

忘れられない、夏の思い出。

 

 

 

from Germany

ハンドメイド布バッグ屋 ::: shiroi mokuren の庭  :::
最近出会った素敵な布。
1910年頃から1950年頃にドイツで作られた
アンティークコットン生地(ジャーマンファブリック)です。
当時のドイツでは、デュベカバーやピローケースなどのセット一式を、
嫁入り道具として持って行くのが習慣だったようで、
主にそういったデュベカバーやピローケースとして使われていたものだそうです。
現代の布の製造工程とは違うからか、年月を経ているということからか、
ガーゼではないのだけれど、とっても柔らかで触れた皮膚を
柔らかく包んでくれるような、そんな独特の風合いがあります。
匂いもドイツの匂い…。
ドイツの家庭では、ひいおばあちゃんがお嫁入りしたときの…
というようなファブリックが眠っている、ということもあるのかもしれませんね。

鈴なりのシアワセ

ハンドメイド布バッグ屋 ::: shiroi mokuren の庭  :::

自転車でよく通る道の曲がり角に小さな病院があって、
毎年この季節になるとそこに植えられているモッコウバラが、
わんと溢れんばかりに淡黄色の可憐な花を咲かせます。
それがちょうど四つ辻にあり、曲がるときに視界に入ってくるということもあって、
可憐な小さな花たちのその淡く柔らかな色に、一瞬はっとさせられます。
毎年毎年、同じようにこの角を曲がるときに、同じようにはっとさせられて、
あ~いつのまにやら、またこの季節が巡ってlきたのだな、と思います。

わたしにとってモッコウバラといえば、まず思い浮かぶのは
この「病院のモッコウバラ」なのだけれど、今年は違う場所でも出会いました。
滋賀県は石山の南、立木観音にお参りに行った帰り道。
ちょうど山からくだってきたところにある家の庭に咲いていました。
場所を問わず、モッコウバラと出会うとはっとなってしまうのは、
やはりこの、淡くなんとも言えない優しい色の醸し出している雰囲気に
独特のものがあるからでしょうか…!
上の方から下の方へ、ふわんと大きくたおやかに垂れ下がって、
木いっぱいに小さな花をつけている様は、まるで小さなしあわせが鈴なりになっているみたい…です。

ハンドメイド布バッグ屋 ::: shiroi mokuren の庭  :::

               滋賀県・瀬田の唐橋にて

白い木蓮の…

ハンドメイド布バッグ屋 ::: shiroi mokuren の庭  :::

この美しい刺繍の施されたレース…

何の模様に見えますか?

わたしはぱっとみて、「白い木蓮のつぼみみたい!」と。(笑)

咲いている花ではなくて、つぼみ というところが気に入っています。

素材は絹ではないそうですが、光沢があってとってもつややか。

19世紀のレースだとか…。

以前は何に使われていたのでしょうか…!

想像が広がります。

針供養のこと

ハンドメイド布バッグ屋 ::: shiroi mokuren の庭  :::

今日、2月8日は「針供養」の日。

永年休まずに使ってきた針をその日に限って休ませ、

折れた古針を供養する行事で、

女性に縁の深い淡島神社で行われるのだそうです。

地域によって、2月8日に行うところと、12月8日に行うところ、

その両日に行うところがあるようです。

普段は硬いものばかり刺している、というので、

古針を、豆腐や蒟蒻、餅などやわらかいものに刺して、

神社で供養したり、川へ流したりするのだとか…。

かつて、和歌山は加太の淡嶋神社を訪れた際、

針供養の後に針が納められる

「針塚」があったことを思い出します。

毎日使う針を休め、供養する日。

その針供養の日が、2月8日、12月8日であるのは、

2月8日を事始め、12月8日を事納めとして、

それぞれ、農耕を始め、終わる日であった

ということと関連するようですが、

このように、いわば一年の「節目」にあたる日に、

日常の針仕事の手をとめて、

針を休ませる行事が営まれてきたということから、

女性にとって針仕事がいかに身近なものであったか、

そして針は、単なる「モノ」ではなく、

日常的に使う大切な仕事道具であったということがうかがえます。

毎日使っているものほど、「ありがたみ」が見えにくくなるものですが、

こういう日のあることで、日常的な連鎖をいったん断ち切って

改めて道具たちと向き合うことができるのでしょうね。

だんだんハレとケの区別が曖昧になってきている現代ですが、

こういったハレの日があるからこそ、ケが成り立っていて、

それと同時に、ケがあるからこそ、ハレがある、

というこの切っても切れない関係を思わずにはいられません。